
プロギャンブラーのぶき氏の著書、「勝率9割の選択」の中で、“運”に関する記述があった。
彼は運と実力のイメージを強く意識している。
そのイメージは、自分が抱いていたイメージとほぼ一致していたので、結構驚いた。
閾値10を超えたら勝ち、それ未満であれば負けとする。
実力5の人物の場合、閾値10を超えるためには5の運を味方に付けなければならない。

したがって、勝ち負けが運に大きく依存する。
一方のぶき氏は自らの実力を高めることで、その値を9まで引き上げていたとする。

すると、運の揺らぎが悪い方向に傾いた勝負においても勝ちを引き寄せられる。
では、運はコントロール可能なのだろうか。
この手の勝負師、たとえば雀鬼桜井章一氏などはそれが可能だと考えるが、のぶき氏は意外とクールに、それはできないと考えているようだ。
できないからこそ実力を0.01%でも高める努力を日々積み上げようとする。
一方で20年無敗の雀鬼は、運をたぐり寄せるために、日々の所作を自然の摂理に逆らわず整えようとする。
彼の経営する雀荘「牌の音」では、そういった全人格を高めることを目的として打ち筋を教えているという。
どちらも納得できる話ではあるが、自分のスタンスはのぶき氏に近い。
自分がこれまで培ってきた理系頭脳には確率密度関数がこびりついているため、どうしても目先の勝ち負けは確率的な揺らぎだと感じてしまう。
したがって運はアンコントローラブルだと割り切り、コントローラブルな領域のみに資源を集中的に投下する。
目に見えない潜在的な期待値がマイナスであっても、実力で強引にプラスに持って行くくらいの圧倒的実力を身につける勢いで学びつつけようとする。
一方で日々の所作を整える、DRMを学ぶことで人が満足するコンテンツとは何か、それを発する自分はどうあるべきかも問い続ける。
それによって、今まで手に入らなかった上質なトレーディングエッジを多方面から大量に教えてもらえる環境も構築できつつある。
トレードと直接関係ないDRMを突き詰めることで、結果的に多様なシステムのパーツが集まり堅牢に組み上がっていく。
これも包括して実力と考えるかどうか、たまたまの巡り合わせと捉えるか。
“運”と“実力”という言葉を二律背反で捉える必要もないのかも知れない。
実力の領域を拡張しつつも、運の存在を認め、運の流れを感じたなら一気呵成に攻め込む。
こんなイメージ。
読者はどんなイメージっすか?