人間の器は物心つくまでにほぼ決定してしまうという説がある。
その要因の半分は遺伝による先天的に備わる能力。
もう半分は物心つくまでの所属コミュニティにおける比較優位の確立の有無だ。
比較優位は絶対的な能力ではなく、所属しているコミュニティにおける順位によって決まる。
かけっこが全国平均の子供でも、幼稚園の同じ組にたまたま足の遅い子供が多ければ、比較優位を確立できる。
逆もしかりだ。
スポーツではその傾向が顕著で、たとえばプロ野球選手の生まれた月を調べると、4月~9月の生まれが10月~3月生まれよりも有意に多い。
これは単純にトレーニング期間の長さだけの問題ではない。
幼児期の数ヶ月の差は、その時期においては身体能力の差にダイレクトに直結し、所属コミュニティにおける比較優位確立に大きな影響を及ぼす。
4月生まれの子供は3月生まれの子供よりもかけっこで1番になった経験が多いので、“自分は身体能力に優れる”とのセルフイメージを確立していく。
自己の身体能力に対してポジティブなセルフイメージを持った子供は、その立ち位置をより盤石にすべく、スポーツに勤しめる環境に身を置くことを選択する。
他のジャンルでも、物心つくまでに比較優位を確立した子供は、その延長線上で当該能力を強化、大人になっても同様の比較優位を保ったまま有利な戦いに臨めるというわけだ。
この説が正しいとするならば、ミカサ・アッカーマンに諭されるまでもなくこの世界は残酷である。
自我の確立後の後天的な努力はほとんど意味をなさないと宣言されているようなものだからだ。
私自身の経験においても、やはり子供のころ見どころがあった人間の名前をググってみると、ひとかどの人物になっていることが多く、逆はほとんど見ることはない。
この説を支持してしまうと、自己啓発や教育ビジネスを含めた「努力は報われる」系で食っている人達に不都合であるため、広く認知されることはない。
また、まだ本気を出していない、いつか本気を出すつもりの若者にとっても、当然この説を聞き入れるわけにはいかない。
食う側、食われる側双方に不都合な説であるため、今後もディファクトスタンダードな思想にはなりえないだろう。
私自身はといえば、個人単位においてはこの説は正しいと考えている。
枝葉のテクニックは何とかなるが、幹や根っこの部分の変革は完全に諦めている。
安西先生にどんなに諭されようと、この考えは変わらない。
しかし、だからこそ、その前提に立つからこその「集合知」なのだ。