
では、残念ながら物心ついた頃までに比較優位を確立できなかった人間はどうしようもないのか。
いや、人間が社会的な生き物であることにその突破口がある。
個人で比較優位を確立できなくても、所属したいマイクロコミュニティにおいて補完的な役割を担えばよい。
マイクロコミュニティが求めているスキルは何も比較優位なものだけではない。
高度なスキル集団ほど、献身的な単純入力作業などに対するニーズが高い。
法人に「人」という人格を持たせているように、コミュニティそのものがアメーバの集合体のごとき人格を持つ。
その人格の中での機能の歯車として適切に噛み合えたなら、高度なスキル集団の中でも重宝されるだろう。
「資本論」では、自立した手工業生産からマニュファクチュア(工場制手工業)への移行によって、生産性が飛躍的に高まることが述べられている。
同様に、適切な歯車としての役割を認められれば、生み出される余剰価値のおこぼれを十分享受できるだろう。
さらにマルクスの時代と違うのは、土地や階級にしばられることなく、自分が所属したいコミュニティへの所属が可能なことだ。
かつてのコミュニティは個人の選好は考慮されず、ただ生まれた状況のみによって所属が決められていた。
それゆえに、この聖書に次ぐ著名な書は「資本家と労働者との闘争」という暗いイメージを常に醸し出す。
現代の、自分が好きなコミュニティへ所属できる状況は、生産性を規定する相互補完性を飛躍的に高めることは自明。
個人の好きな行為の協業によって多大な富を生み出す、最高の環境といえる。
これこそがまさにマルクスが志向し、ソ連という壮大な社会実験によって潰えた真の「共産」なのではないのか。
誰しもが比較優位を確立しづらくなった現代だからこそ、リクルートの「キャリアアップ」などの労働階級固定化ワードに惑わさせることなく、自分の選好を心に問いかけてみて、その衝動に突き動かされた行動によって、この人類史上最高の流動的な時代を生きるべき。
比較優位がなくとも、行動するものには所属可能な環境を用意してお待ちしている。
共に最高で最好なマイクロコミュニティを構築していこう!