茶碗に残した米粒

ファスト&ロー ダニエル・カーネマン プロスペクト理論

先日25日から明日28日まで、旅行に出ている。

友人の結婚式キッカケで福岡に向かうため、せっかくなのでどこかに寄っていこうと計画を立てた。


初日大分湯布院で温泉を巡り、ゆふいんの森号で佐賀まで移動。

親の車で親戚廻りをした後に博多のキャナルシティに連泊し、そこを拠点に中洲や天神など思い出深いエリアをいろいろ見回っている。

本日結婚式が薬院の方で執り行われ、何次会まで行くかわからないので、その前にブログをホテルで更新中。


さて、親戚廻りをしていると、数年ぶりに会う方も多数いる。

当然のことながら、自分がおっさんになっているわけだから、かつてよくしてくれたおじさんやおばさんなども、とうに還暦を過ぎている。

子供の頃、尊敬と畏怖の念を持って見上げていた彼らも、今は二回りほど小さくなっていた。


両親の祖母はまだ健在で、父方の祖母は御年95。

前回会ったときはまだコミュニケーションが取れていたが、今は自分の顔を見ても誰だかわからない様子だった。


かつて、常に孫の自分たちを我が事以上に気にかけてくれていた祖母。

茶碗に米粒ひとつ残しただけで烈火のごとく叱られては、百姓として生きてきた戦中戦後の苦労話を折に触れて聞かされたものだった。


戦況が悪化していくシンガポールに出征していた祖父を、ひもじさに耐えながら待つ日々はいかばかりだっただろう。


それが今はすべてが完全に記憶から消えてしまい、自分の欲求だけを口にするようになっていた。


ときが経てば、いづれは自分も同じ運命を辿る。

そう遠くない未来、自分の記憶がまっさらなキャンパスへと還元されたとき、自分に関わる記憶をその心に刻み込んでくれる人達をどれだけ残せるだろうか。


少なくとも、ディスプレイの前でマウスをクリックして日々の糧を得るだけの作業を続けていても絶対に叶わない。

いかに屁理屈をこねて行為の正当性を周囲の人間に納得させたとしても、自分だけはだませない。


だから、自分の固有性を表現する日々を止めずに続け、ひたすらその方法論を探り、動き続けている。

トレードとは無関係のDRMを学び続けるのも、人の心に自らを刻みつけるための本質論を突き詰めたいから。


自分が心血を注いで高めてきたトレードの技術と、社畜時代に突き詰めた人心掌握のためのDRMの技術、その掛け合わせで自分という固有性を表現していく。


前例なき取り組みは常に無理解を生み、ときに批判にさらされるだろう。

だが、共に矜恃を持ってトレードの技術を高めんとする仲間達の心には、もしかしたら記憶のキャンパスが白紙になったときかもしれないけれども、必ずいつか刻み込めると信じている。


不惑の年を目前に、茶碗に残した米粒の意味、それを悟った自分のように。