つづいて正の部分。

会社組織に属していれば、否応なく他者との関わりが発生する。

市井の方々には当然のこの環境がもたらす意義は相当に大きい。


一時期フリーで働きながらデイトレードをやっていたことがある。

もともと他者との関わりが苦手な自分がそのような環境を選択したため、必然的にひきこもり状態に陥ってしまう。

特にフリーの仕事がない時期は、コンビニで“温めますか?”と問われて“お願いします”と発するひとことがその日の発声のすべてという異常な日々が日常であった。


マズローを引き合いに出すまでもなく、いかなる人間も他者との関係性においてのみ自己を認識し、それが人間としての原初となる。

したがって、人間にとっての最大の恐怖は他者から嫌われることではなく、他者から認識されなくなることなのだ。


2008年6月に発生した秋葉原の通り魔事件で加害者の加藤智大は、掲示板をなりすましで荒らされ、掲示板荒らしが去って孤独を感じ、掲示板に通り魔事件を起こすと投稿するようになったという。

すなわち事件の引き金は、他者からの嫌がらせによってではなく、他者の認識の外に完全に置かれた(と感じた)ことによって引かれたのである。


事件前の彼の挙動に対して識者たちは、“身勝手だ”、“理解できない”と異世界の思考を持つ人間として非難した。

一方、ネット上では“なんとなく彼の気持ちがわかる”、“自分も歯車がちょっとずれると同じ事件を起こすのではないか”と、多くの者が自分と同属性の人間として彼を自らに投影した。

彼らの情動たるこれらの言動は、“自分はこう考える、それを理解してほしい”という承認欲求から、より低次の“自分はここにいる、誰か認識してほしい”という所属欲求への後退を示唆する。


結局私はフリー兼トレーダーという立ち位置に折り合いをつけることができず、再就職することにした。

入社初日、そこには自分を認識してくれる人々がいた。

もちろん、認識だけで理解や承認はない。

でも、それでもよかった。

確かに今、自分は社会との関係性の中にいる、そう思えるだけで十分だったのだ。