

人に価値を保蔵するメリットは理解できた。
ここで一抹の不安がよぎる。
果たして自分が提供した価値は確実に帰ってくるのかと。
ピーター・バーンスタインの著書「リスク-神々への反逆-」をひも解くまでもなく、太古より人類は未来の不確実性に対して異常なまでの恐怖を感じるようにプログラムされいる。
物陰から猛獣が襲ってこないだろうか、秋の収穫量でこの冬を越せるだろうか、隣国の大名が攻めてこないだろうか、受験には受かるだろうか、プロポーズは断られるのではないか、会社で頑張った先に希望はあるのだろうか、この仕掛けは損切りになるのではないか・・・。
同様のアナロジーを人への価値の保蔵に当てはめるならば合点がいく。
人に親切にしても、同じ親切が帰ってこないのではないか、自分が提供した価値以下の価値しかこの人は返してくれないのではないか、と。
可視化されない人への価値の保蔵は、その思いをより一層増幅させる。
だから我々は確実性を求めて、価値を金属や紙に保蔵する。
他人の移ろいやすい心に比して、握りしめた金属の感触は冷たくも確かだ。
1985年のプラザ合意を基点に、日本も国際資本主義の荒波に否応なく放り出されることとなる。
ソ連という大いなる社会実験を経て、資本主義の優位性が証明され、荒波はより一層高く激しくなった。
2007年のリーマン・ブラザーズ破たんを伴う金融危機もってしても、その荒波は止まらない。
だが、必然のシンクロニシティなのだろうか。
ときを同じくして、ベンチャー投資家のフレッド・ウィルソンが新たな概念「フリーミアム」を規定した。