ここしばらく、苫米地英人の本を好んで読む。

理由はわからないが、吸い寄せられるように手に取ってしまう。

中年の我が老細胞が、何か新たな変化を求めはじめたか。


曰く、今、目の前に見えている事物は、過去の記憶を引き出してきて再生しているに過ぎず、したがって人は今、過去を生きているのだという。

今というときは、五感によって認識されたデータと過去の記憶との符合によって創りだされる。

この説を支持するならば、我々の未来はいかにして積み上がるのか、そしてどうすればよき未来を積み上げることができるのだろうか。

蓄積してきた過去を省みるとき、疑問と共に不安がよぎる。


読者諸氏が今、そのこだわりのトレードシステムによって意にそぐわぬエクイティーカーブを積み上げているのなら、以降、過去を教材とした強化学習が繰り返され、さらに意にそぐわぬ堅牢な未来が積み上がっていくことは想像に難くないだろう。


アローヘッドの導入、HFTの台頭、取引所統合、夜間取引の拡大、NISAの開始・・・、トレード環境の変化はめまぐるしい。

プロフェッショナルを自認してきた誇りあるトレーダーの名が耳目に久しい昨今、非力な我々個人トレーダーに、どうして「過去に生きる」という選択肢があろうか。


“普遍とは流転”

トレードとは無関係な、ある高額教材で新たな概念を獲得していたとき、作者である天賦の才を持った平成生まれの若者が普遍を説く。

過去の技術にすがって逃げきろうとする先人達を“おまえら加齢臭出しまくりなんだよ!!”と吐き捨てる。

その彼の前に、ひとまわり以上も年の離れた加齢臭まみれの男達が長蛇の列をなす。

そしてこれまで積み上げてきたなけなしの札束を献上し、救いにも似た教えを乞うという構図が今、確かにある。

この男達はみじめだろうか。





否。

もしその構図に自らが積み上げるべき未来をみるならば、いくつになってもきっと間に合うはず。


“普遍とは流転”

日常の何気ない変化に流転のとき感じたのなら、まさにそのときこそが普遍への第一歩。

読者諸氏がこだわり抜いて過去に最適化したそのシステム、流転のときはいつだ。