お金が欲しければお金のことは考えるな:フリーミアム経済の希望(1)


少し前読了し紹介した「ユダヤ人大富豪の教え」。

示唆に富む内容が多かった中で、

「お金が欲しければお金のことは考えるな」

というメッセージもまた、本気で富豪を目指す自分には強く響いた。


一見矛盾したこのメッセージを腑に落とすため、思索を巡らせてみる。


貨幣には主に3つの機能がある。

1.価値の尺度
2.価値の保蔵
3.交換の媒介


ここでは2の価値の保蔵を切り口として考えてみよう。


たとえば1本の人参は、オプションパラメータのセータのごとく、時間経過とともに腐敗し価値を消失する。

それを貨幣と交換すれば、人参1本分の価値がその貨幣に蓄積される。


貨幣を“人”に置き換えてみよう。

ある人が価値を感じる情報を自分が生み出せるとする。

情報は人参のように腐りはしないが、そのままでは価値として具現化もしない。


もし自分がその価値を感じる人に出会うことができ、無償で価値を提供したらどうなるか。

生み出した価値がその人の中に保蔵されると考えるのは、貨幣の機能からのアナロジーに照らし合わせても、それほど奇想天外ではないだろう。


この“人への価値の保蔵”は貨幣と比較してメリットが大きい。


まず、空手から価値を生み出し保蔵できる。

電車でおばあちゃんに席を譲るのにコストも資材も資格も必要ない。

ただ譲るだけ。

現代、特に東京はそういった行為自体に希少性があるため、保蔵される価値もことのほか大きい。


つぎに複利効果も抜群だ。

本当に人が必要とする価値を提供したとき、そこには感動が生まれる。

感動は口伝えだけでなく、五感を通じてその人の周りに伝搬する。

さらにその周りの人から周りの人へと、自然で強力なバイラルとして発動していく。

結果、増幅された価値が巨大に積もり積もって自分のもとへと帰ってくるだろう。


そして、なんといっても非課税である。

自分が電車でおばあちゃんに席を譲ったとき、そのおばあちゃんに対して税務調査を実施する無慈悲な税務署員はいない。

隠し金庫や畳の下にビクビクしながら蓄える必要はなく、国税庁長官の目の前でも堂々と保蔵できる。


なのになぜ、我々現代人はこの多大なメリットを享受しようとしないのか。

保蔵対象に温もりある人や強固な社会ではなく、冷え切った金属や脆い紙を選択するのか。


その謎を“返応の不確実性に対する恐怖”からひも解いてみよう。