実行優先度評価のワナ(3):判断基準は常に己の歓喜の程度であるべし


組織における施策優先度評価が即時性を最優先させるのは、表向き絶対的なKPIを評価基準にしているように見えて、実は他者との相対的な関係性の方に重きを置いてしまうからだ。

人間は社会的な生き物であり、自己認識は他者との関係性によってのみ可能になるわけだから、当然といえば当然である。


問題は、関係性のあり方が自律的なものではなく他律的なものにならざるを得ない点。

他人の欲望の表出たる利害に自分の判断基準がいとも簡単に左右される。

体が完全に硬直し、強烈な拒否のシグナルを出しているにもかかわらず、幼少期から二宮金次郎に忍耐を美徳と説かれてきた我々は、使い道のないボロぞうきんになるまでひたすら堪え忍ぶ。


こういった意味においても、会社というベクトルの揃わない人間の集合体の限界が見えてきたといえるだろう。

人としての尊厳の死を踏み絵に乗船を許されたこの不沈艦大和を自力で脱出している日本人は、今、読者が考えている以上に大量発生している。


大和推進のために必要な集約労働量が一定でありながら乗組員が減っていくわけだから、労働強化は果てしなく進む。

いづれ彼らは、尊厳の死、その先をのぞき込むことになるだろう。


ピュアな個人として生きることを決めたなら、己の行動の優先度評価に2軸は必要ない。

軸はひとつ。

「やってみたい」

その思いのみ。


行動した先の自分を空想したとき、体中の細胞が沸き立ったならやる、硬直したならやらない。

そしてその評価基準のそろった仲間と、思いを形にしていく。


ここで、この考えへの反論を思いつくまま並べてみよう。

すべてが「いいわけ」になっていないだろうか?

内なる思いを実現できない(と思い込んでいる)惨めさがもたらす認知的不協和を覆い隠すためだけのいいわけの数々。


そのいいわけは、重厚な鎧となってさらに己の意思を不自由にしていくだろう。



さて、読者の行動のための実行優先度評価。

その評価は、それでも他律的な関係性から導き出された軸で優劣を決めるべきだろうか?